今、100年に一度の経済危機などと言われているが、本当にそうなのだろうか。

1945年の日本は、今より経済状態は良かったのだろうか?

必死に仕事を見つけ、何よりもまず、食べものを確保することに一生懸命、経済以前に、そもそもモノがない、そんな時代と比べても、今の世の中というのは、さらに悪い状況なのだろうか。

さて、自分が生まれるだいぶ前なので当時がどんな状況だったのかは伝え聞くところでしかないが、この戦後の経済成長は目覚ましいものである。

欧米に追いつけ追い越せと、とにかく必死で国を立て直し、今の日本の礎を築いた。

こうした中、スポーツの果たした役割は相当に大きかったはずである。

皆が街角の街頭テレビに群がって、力道山が空手チョップを出して白人レスラーを次々と倒すと、日本中が狂喜した。

これがテレビの普及を後押しし、プロ野球やオリンピックといったエンターテインメントコンテンツが定着していく。

同時に、体力と精神を鍛えるという教育的な側面が強かった「体育(身体教育)」は、「スポーツ」として生まれ変わっていく。

ボウリングやスキーブームが起こり、サッカーをはじめとする新たなプロスポーツや団体が発生し、オリンピックの商業化など、スポーツは「楽しみ」となり、そして「ビジネスとエンターテインメント」の世界に入ってくる。

データ記録・集計・分析、情報収集、プロモーション等、もちろん、ここにITが深く関連していることは言うまでもない。

そして今日も、ダイエットや健康意識の高まりから、体と心を鍛える本来の目的が形を変えて、フィットネスやジョギングが見直されてきている。

日本人は淡泊だ、と言われるが、そんなことはない。

表に出さないだけで、内に秘めたるパワー、エネルギーはものすごいものがあり、愛国心、郷土意識も、またしかりである。

自分たちの仲間である日本の代表が世界と渡り合っている場面や、応援する選手・チームや学校がハイレベルな場ですばらしいパフォーマンスを魅せる場面では、何千万人もの国民がテレビにかじりつき、その結果に一喜一憂する。

あるいは自分自身をスポーツをする場に置いてみる。

スキルアップでも、試合の結果でも、ゴールテープでも、努力をして目標を達成したときの喜びや感動、達成感や爽快感、またこれらを求める感情は、誰もが皆、常に持ち合わせているのである。

結果は一度しかなく、一度たりとも同じことが起こらないスポーツ。

先が読めないスポーツをする、あるいは見ることで、様々な感情が活性化され、またリフレッシュされ、日々の活力が生まれてくる。

「人間が体を動かす」という基本的な営みの中に、こうしたパワーが秘められている。

何とすばらしいことかと思う。

しかしながら、週休2日が普通になり、またIT化が急速に進み、便利な世の中になっても、スポーツに接する機会はむしろ減っているのではないだろうか。

精神は疲弊して、いろいろなことへの活力が減衰しているのではないだろうか。

ボタンを押すだけで映るテレビや、アクセルを踏めば動く自動車などと違い、得意でないコンピューターに使われて、何かをする気が失せてしまうくらいに消耗して、せっかく増えた休みも何となく過ぎてしまう。

コンピューターはあくまでも、使われるものではなく、使うものである。

コンピューターと接することで消耗するのではなく、ITを使うことで余暇を楽しめる余裕を作る。

そういうITの仕組みを作っていくとともに、その楽しみの一つとして、スポーツを提案するのが使命だと考えている。

また、対象は何でもいい。

スポーツをするだけではなく、見るのでも、あるいはスポーツではない趣味でも、試験の合格発表でも、営業が取れた、でも、「ヨッシャー!」っとガッツポーズをして叫んだことが最近あるだろうか。

そうするために、努力して、試練に立ち向かって、必死になることは、今の生活の中で、どれくらいあるだろうか。

スポーツは、比較的簡単に、こうした感情を呼び起こさせる。

そして、スポーツで培った、この精神をベースにして、日々の生活にも活力を与え、何をすることに対してもモチベーションを保ち、感動と興奮を生むことができるようになるのである。

だから、スポーツをする人にもしない人にも、スポーツのすばらしさを広めていく。

スポーツは、もしかしたら、「体育」、つまり「体力と精神の鍛錬」に回帰するかもしれない。

とにかく、自分たちが仕事をしていく上で、ITは疲弊するものではなく、便利なモノであること、そしてスポーツは何よりすばらしいし、自然と自分の精神力が向上していく、ということを、伝えていきたいのである。